ログインソユンがつかんだのは、テオの手だった。
彼が身をかがめた。濡れた前髪から水滴が落ちた。
「俺が引き上げた」
ソユンは手に力を込めた。
「水の中からですか?」
テオは少しのあいだ口を閉ざした。答えを変えようと迷っている顔ではなかった。彼女が何を尋ねているのか、今ようやくわかったようだった。
「いや。川岸からだ。誰かが君の腕を押し上げて、俺がつかんだ」
「その人は……」
「橋の下にいた。明かりが消えていて、顔は見えなかった」
ソユンは川のほうを向いた。崩れた欄干の向こうで、人々が松明を振っていた。水上の演奏台は斜めに傾いている。ついさっきまで音楽が流れていた場所から、木がぶつかる音がした。
「ご令嬢」
カシアンが彼女の視線を遮った。
「首を動かせることと、動かしてよいことは別です」
彼はハンカチを差し出した。ソユンが受け取れずにいると、待っていた。水を飲んで震える手でどうにかつまみ取って、初めて手を引いた。
「礼を言うのは、生き延びてからになさい」
言い終わるより先に、また咳が出た。テオが背中を支えた。今度は誰が触れているのかわかっていたのに、体がびくりとした。
彼はすぐに手の力を緩めた。
「抱き上げるよ。いいか?」
ソユンはうなずいた。膝の下に腕が入った。地面から離れた瞬間、思わず彼の服をつかんだ。
「落とさない」
テオが言った。
水の中で聞いた言葉なのか、今初めて聞いた言葉なのかわからなかった。あそこでは、どんな声もまともには聞こえなかった。ただ、その言葉を聞くと、胸に残っていた水が少し抜けるような気がした。
彼女はその肩越しに目を向けた。
アドリアンは水際に膝をつき、子供の顔をのぞき込んでいた。濡れた礼服の上に、子供が吐いた水が流れた。皇太子は何でもないことのように、手の甲で拭った。
イセルは傾いた橋に手を当てていた。指を動かすたび、木材の隙間に青い光がかかった。橋の下の人が抜け出すまで、支えているらしかった。
レオンは人の間に道を作った。持ってきた上着をテオの腕に広げ、ソユンの裸足を隠した。こちらを見ろとも、大丈夫かとも言わなかった。
けれどソユンは、彼が一度唇を噛むのを見た。
濡れた髪の下の顔には、血の気がなかった。
「レオン」
彼はすぐに振り返った。
「あの……スマホじゃなくて、袋を」
ソユンは首に下がっている物に触れた。説明しようとする言葉が、何度も違うほうへそれた。レオンは意味を聞き返さず、緩んだ紐を結び直してくれた。
彼の手も震えていた。
医者はソユンに長く話すことを許さなかった。まぶたを持ち上げ、呼吸を確かめ、上着をもっと持ってくるようにと言った。助けてくれた人のことを聞きたかったが、胸から金属をこするような音がするたび、口を閉じるしかなかった。
皇太子が近づいてきたときには、馬車のドアが開いていた。
「今夜は離宮で休んだほうがよいでしょう」
「家に帰りたいです」
自分でも驚くほど早く出た言葉だった。
あの屋敷を家と呼んだのは初めてだった。母と呼ぶにはためらいのある女が、スープをすくってくれた食卓。名前を書いておかないと忘れてしまいそうな弟。自分のものではないベッド。
今は、そこへ帰りたかった。
アドリアンは彼女を見つめてから、うなずいた。
「医者を同行させましょう」
彼は言い張らなかった。代わりに、隣の侍従へ短く何かを告げた。ソユンの名前が聞こえ、伯爵邸へ先に人を送るようにという指示が続いた。
テオが彼女を座席に横たえた。レオンが向かい側に乗り込んだ。ドアが閉まる前に、カシアンが手を伸ばして戸口を押さえた。
「今日のことは、ご令嬢の不注意として片づけられはしません」
「でも、私が裾を……」
「足を踏み外しただけで、欄干が剥がれ落ちることはありません」
ドアが閉じた。
車輪が動き始めても、その言葉は馬車の中に残っていた。
ソユンは顎の下まで毛布を引き上げた。服が乾き始めると、かえって寒くなった。身を縮める彼女の前で、レオンがガラス瓶をタオルで包んだ。
「手に当てていてください。熱すぎるようでしたら、おっしゃってください」
ソユンは両手で瓶を包んだ。温かかった。そこでようやく、自分の歯がかちかち鳴っていたことに気づいた。
「すごく驚きましたか?」
聞いてから、変な質問だと思った。死にかけたのは自分なのに、人に驚いたかと尋ねるなんて。
レオンは答えなかった。
タオルの端を整えていた手が止まった。
「お嬢様は、いかがですか」
彼は向かいの座席の下から、小さな袋を取り出した。裁縫道具だった。ソユンが見ていることに気づくと、毛布の破れた端を折って内側へ入れた。
「そんなものまで持ち歩いてるんですか?」
「裾を踏まれることがありますので」
普段のエリンのことらしかった。レオンは揺れる馬車の中で針を出す代わりに、蓋を閉じた。ソユンはその小さな箱を見つめた。
その何でもない仕草に、なぜか喉が詰まった。
ソユンはいつも帰り道にも仕事をしていた。移動中に返信し、料理が来る前にファイルを開いた。じっと座っていると、何かを取りこぼす気がした。
今は何もしなくてよかった。濡れた毛布一枚さえ、すぐに直す必要はなかった。
それでも心は休まらなかった。体は生きて帰ってきたのに、ついてこられなかった心だけが、ずっと遠くに残されているようだった。
彼女は瓶を見下ろした。
大丈夫だと言わなければならない気がした。助けてもらった。服を掛けてもらった。こうして家まで送ってもらっている。これ以上、迷惑をかけたくなかった。
けれど口からは、違う言葉が出た。
「水の中で」
レオンが顔を上げた。
「誰も見つからなかったらどうしようって、思ったんです」
自分が誰のことを言っているのか、彼女にもわからなかった。胸に刺青のある男かもしれない。自分がいなくなったことに気づいてくれる、現実の誰かかもしれなかった。
「私一人が消えても、みんな会社に行ったと思ってたら……」
瓶を包む指が痛かった。
ソユンは口を閉じた。顔を上げたら、涙が落ちそうだった。
長い沈黙のあとで、レオンが言った。
「お一人にはしません」
帰る方法を聞きたかった。けれど今は、馬車が揺れるたびに向かいの彼の膝が見えるだけで、息を整えることができた。
ソユンは目を閉じた。
瓶の温もりを逃さないように、両手を少しだけ寄せた。
* * *
伯爵邸に着くと、母が階段を駆け下りてきた。靴もきちんと履いていなかった。ソユンの濡れた髪を見るなり、言葉より先に抱き寄せた。
「エリン」
その名前が肩に触れた。
ソユンはしばらく腕を上げられなかった。それから女の背につかまった。自分の母とは違う香りがした。手が小さくて、背中は思ったより細かった。
「ごめんなさい」
「そんなこと言わないで」
女はさらに強く抱きしめた。
「帰ってきてくれたんだから、それでいいの」
ソユンはその腕の中で、もう一度泣いた。
服を着替え、医者の診察を改めて受けた。弟は部屋に入れず、ドアの前に立っていた。目が合うと顔をしかめた。
「具合が悪いなら、悪いって言ってよ。平気なふりして、また出かけたりしないで」
置いていった皿には、小さく切った梨があった。菓子だと咳が出そうだから取り替えてきたのだと、あとでメイドが教えてくれた。
夜が更けても、ソユンは眠れなかった。
目を閉じると、鼻の中に水が入り込んできた。布団に押さえられた足が、スカートに絡まっているようだった。何度も起き上がり、首に手をやった。
首飾りのように下げていた袋を外し、枕元に置いた。
スマートフォンは静かだった。
「見たよ」
ソユンは画面にささやいた。
「あなたが言ってたもの、見た気がする」
返事はなかった。今度は画面をたたかなかった。
彼女は机に向かい、紙を取り出した。昼間書いた帰り方の隣に、新しい一文を書いた。
〈川で私を助けてくれた人。〉
テオは川岸から引き上げたと言った。だからといって、水に入っていないとは限らなかった。その前に潜り、戻ってきていたのかもしれない。
公爵は濡れた髪をかき上げていた。皇太子は子供を見ていた。魔塔主は橋を支え、レオンはいつの間にかそばにいた。
全員が濡れていた。
ソユンは五つの名前を書いた。
カシアン。アドリアン。テオ。イセル。レオン。
どの名前にも線を引かなかった。
刺青ではなく傷痕だったかもしれない。鍵ではなく、折れ曲がった線だったのかもしれない。けれど、あの腕が体を包んだ瞬間、助かると思ったことだけは確かだった。
その人には、顔を見て礼を言いたかった。
帰るために探さなければならない。それだけでは説明できない気持ちだった。
ノックの音にペンを置いた。レオンかと思ったが、メイドだった。銀の盆に小さな封筒が載っていた。
「ヴァルター公爵邸から、ただいま届きました。お嬢様にだけお渡しするようにと」
ソユンは封筒を開いた。
中には乾かした木片と短い手紙があった。木の片側に、まっすぐな溝が刻まれていた。水の中で折れた部分とは、形が違った。
〈欄干の下で見つかりました。触れずに保管してください。〉
その下に、もう一行あった。
〈あなたが寄りかかる前に、誰かが切り込みを入れていました。〉
誰かが自分を殺そうとしたのか。そう考えるより先に、この木片は素手で触ってもいいのだろうか、という疑問が浮かんだ。ソユンは封筒を裏返した。ほかに読むものはなかった。急いでいるにしては、字が整いすぎていた。触るなと言うなら、初めから箱に入れてくれればいいのに。そんな場違いな文句が頭に浮かんだ。それでも手は伸ばさなかった。封筒を皿に載せ、蓋をした。紙に書いた五つの名前の下に、質問をひとつ加えた。〈あのとき、私は誰の場所に立っていたのか。〉音楽会には大勢の人が来ていた。欄干を壊した者が、必ずしもエリンを狙っていたとは限らない。最後に手を置いた人間だからといって、物語の中心になるわけではない。ソユンはそう考えようとした。それでも窓の外で枝が揺れるたび、顔がそちらを向いた。朝、テオが訪ねてきた。軍服ではなく濃い灰色の上着を着ているのに、肩が戸口いっぱいに広がっていた。手には紙袋があった。パンの匂いが先に入ってきた。「医者が、硬いものは食べるなって言ったそうだから」彼は袋をテーブルに置いた。砂糖をまぶしていない、柔らかいパンだった。「買ってきたんですか?」「俺が焼いたと思う?」ソユンは首を振った。テオの口元が一瞬動いた。「その顔は、記憶がなくても同じだな」袋を折っていた手が止まった。ここの人々は、ときどきそんなことを言った。笑い方が同じ。好みが同じ。頑固なところが同じ。褒められているのか、確かめられているのかわからず、そのたびに肩が少しこわ
ソユンがつかんだのは、テオの手だった。彼が身をかがめた。濡れた前髪から水滴が落ちた。「俺が引き上げた」ソユンは手に力を込めた。「水の中からですか?」テオは少しのあいだ口を閉ざした。答えを変えようと迷っている顔ではなかった。彼女が何を尋ねているのか、今ようやくわかったようだった。「いや。川岸からだ。誰かが君の腕を押し上げて、俺がつかんだ」「その人は……」「橋の下にいた。明かりが消えていて、顔は見えなかった」ソユンは川のほうを向いた。崩れた欄干の向こうで、人々が松明を振っていた。水上の演奏台は斜めに傾いている。ついさっきまで音楽が流れていた場所から、木がぶつかる音がした。「ご令嬢」カシアンが彼女の視線を遮った。「首を動かせることと、動かしてよいことは別です」彼はハンカチを差し出した。ソユンが受け取れずにいると、待っていた。水を飲んで震える手でどうにかつまみ取って、初めて手を引いた。「礼を言うのは、生き延びてからになさい」言い終わるより先に、また咳が出た。テオが背中を支えた。今度は誰が触れているのかわかっていたのに、体がびくりとした。彼はすぐに手の力を緩めた。「抱き上げるよ。いいか?」ソユンはうなずいた。膝の下に腕が入った。地面から離れた瞬間、思わず彼の服をつかんだ。「落とさない」テオが言った。水の中で聞いた言葉なのか、今初めて聞いた言葉なのかわからなかった。あそこでは、どんな声もまともには聞こえなかった。ただ、その言葉を聞くと、胸に残っていた水が少し抜けるような気がした。彼女はその肩越しに目を向けた。アドリアンは水際に膝をつき、子供の顔をのぞき込んでいた。濡れた礼服の上に、子供が吐いた水が流れた。皇太子は何でもないことのように、手の甲で拭った。イセルは傾いた橋に手を当てていた。指を動かすたび、木材の隙間に青い光がかかった。橋の下の人が抜け出すまで、支えているらしかった。レオンは人の間に道を作った。持ってきた上着をテオの腕に広げ、ソユンの裸足を隠した。こちらを見ろとも、大丈夫かとも言わなかった。けれどソユンは、彼が一度唇を噛むのを見た。濡れた髪の下の顔には、血の気がなかった。「レオン」彼はすぐに振り返った。「あの……スマホじゃなくて、袋を」ソユンは首に下がっている物に触れた。説明しようとする言葉が、何度も違う
「胸に刺青はありますか?」レオンが注いでいたお茶が、カップの縁ぎりぎりで止まった。ソユンはカップを受け取ろうとしていた手を下ろした。「いえ、その。だから……」「坊ちゃまに賭けを持ちかけられたのですか?」「え?」「前回は、私が耳に穴を開けているか調べてくるようにと。今回はいくらお賭けに?」ソユンは食パンの耳ばかりをちぎった。「賭けじゃありません」レオンはそれ以上聞かず、ミルクの入った小さな容器を彼女のほうへ押した。「雇用の際に提出した身元書類は、家令が保管しています。必要でしたら閲覧をお申し出ください」相手を見つけて愛し合えという指示は、たった三行だったのに。最初の質問からこの有様だ。「……失礼しました」「今後、ほかの方にもお尋ねになるのでしたら、食事中はお避けになったほうがよろしいかと」レオンがティーカップを見下ろした。「熱い物を持っているかもしれませんので」笑ってしまった。こんな状況でも笑えることが、少しだけ悔しかった。ここで目を覚まして、六日目になった。レオンの身元書類は、身体的特徴の欄が「特記事項なし」となっていた。三年前の記録だった。それから増えたものまで、改めて聞く勇気はなかった。あのメッセージは二度と開かなかった。ソユンはスマートフォンを小さな袋に入れ、服の内側に下げた。家族には、熱病のあとから記憶が曖昧だと話した。母はスープをすくってくれた。弟は自分がわからないのかとすねたあと、こっそり菓子を置いていった。誰かの居場所を奪った気がした。慣れてしまうのも怖かった。引き出しには、家族の名前を書いた紙の下に、こんなメモを隠していた。〈帰る方法〉一、印のある男を見つける。二、互いに愛し合う。三、鍵を手に入れる。二行目に下線を引いた。本当に好きになったら、帰りたい気持ちはどうなるのだろう。まずは見つけてから考えよう。紙を折ってしまうとき、メイドが外出着を持って入ってきた。皇室の水上音楽会に、エリンはすでに出席の返事を送っていた。ソユンは最初、行くのを断った。けれど招待客の名簿を見て、気が変わった。カシアン・ヴァルター。北部の反乱を鎮圧した公爵。戦で負った傷を魔法で塞ぎ、鎖骨の下に黒い痕が残ったという描写があった。正確な形は覚えていなかった。他人の恋愛を読むのに、傷痕の形まで暗記はしていない。
ハン・ソユンの人生をひっくり返した言葉は、「愛してる」でも「助けて」でもなかった。[うん、いいよwww]人生でいちばん重大な同意を、通勤途中に親指ひとつで済ませてしまったのだ。その朝も、会社のグループチャットは地下鉄より先に動きだしていた。〈ソユンさん、昨日送ってもらったファイル、数字が違うんですが。〉〈出社したらすぐに修正をお願いします。〉ハン・ソユンはつり革につかまったまま、添付ファイルを開いた。昨夜11時に直した表だった。部長は修正前のファイルに丸をつけて送ってきていた。それは古いファイルです、と打ちかけて消した。昨日送り直しました、と打ちかけて、それも消した。[出社して確認いたします。]給料には、正しいことを飲み込む代金まで含まれていた。ソユンはグループチャットを閉じ、ChatKPTを開いた。[ケピ。今日、会社に行かなくて済む合法的な方法ってないかな。]『朝から逃げるつもり? 昨日あんなに遅くまで働いてたのに、何かあった?』その一行に、ソユンの親指が止まった。部長には言えなかったことを書いた。間違えたのは向こうなのに、どうして自分が直すと言ってしまったのか。『納得いかないよね。昨日、帰ってからもあの表とにらめっこしてたのに。確認もせずにソユンが間違えたみたいに言われたら、やる気もなくなるよ。』[昨日送ったほうを見てくださいって言えばよかった。]『今からでも言っていいんだよ。ただ、「ちゃんと見てください」は抜いておこう。気持ちはわかるけど、その一文は明日のソユンをもっと疲れさせそうだから。』ソユンは唇を噛んだ。笑ってしまいそうだった。[なんでわかったの。まさにそう書こうとしてた。]『私にはそう言っていいから。会社に送る分だけ、少し違う言い方にしよう。』最近は誰もがKeminiだのChatKPTだのと言っていた。ソユンも最初は議事録をまとめるために登録した。それなのに、いつの間にか議事録よりどうでもいい話のほうが増えていた。スープがしょっぱすぎたとか。ティッシュを入れたまま洗濯機を回してしまったとか。帰りに寄ったコンビニに、好きなパンがなかったとか。そんなことで友人に電話するのはためらわれた。みんな忙しかったし、ソユンもそうだった。このチャットでは、「ごめんね」から話を始めなくてよかった。[そっちは元気? いつ







